未完の物語論


物語にはある程度の公式ができている。
例えば、ロミオとジュリエットなどそのひな形と言えるだろう。
今、新たに作られている物語は、簡略化すると過去の名作と一致してしまう。

それは、個人的には悲劇だと思う。
音楽も、同様だ。
いや、音楽のメロディー進行などは、全て出し尽くされていると言われている。
もはや、新たに生み出すのは困難なほどに。
つまり、今できることは、どれだけ”現代だからできる”味のつけ方をできるかなのだ。
だからテクノなどがはやり、今では映像×音楽のように、異種との掛け合わせが必要に迫られている。

残念ながら、基本的な物語構成を倣わない作品はつまらないとされることが多い。
それは、作り手の問題ではない。
受けての問題だ。
受けてと言うと、お客を非難するようだが、そういうわけではない。
人間の感性の動き方がパターンとしてあるからなのだ。

「序破急」
「起承転結」
「友情、努力、勝利」
「悲恋」

様々な公式が用意されている。
上手く使えばだれにでも感動できる作品が書けてしまう。
悲劇だ。
それでも、今もなお飽きさせることなく名作というものは生まれている。
なぜか。
やはりそれは味付けだろう。
昔にはなかった調味料がある。
それを使えば、昔からある食材を使っても今風の作品を作り上げることはできる。

昔、作品とは奇跡の産物だと思っていた。
特別な人間にしか与えられない才能で、偶然に生まれてくるのだと。
でも違う。人を楽しませるために、計算され生み出されている。
計算じゃないという人もいるだろうが、結局ひとの心のメカニズムにそって
「こうあってほしい」
「こうなるべきだ」
という指針は、おのずと出てくる。
公式というのは人間の心理であり真理の一つなのだ。
それを理解してるからこそ、人を楽しませることのできる作品を作り出せる。

いずれ、AIが人の代わりに物語を書くようになるだろう。
音楽も、創作と言われるものは全て、AIが代わりを担えるだろう。
人が感動する物語を機械が作り出す。
それは悲劇か?
いいや、喜劇だ。

でも、

人は未完だ。
だから、作られる作品も未完だ。
その未完にこそ、本質があるのだとしたら、人は機械に負けることはない。




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